ゆとり世代のボッチが送るお気楽生活日記。

ぼっちの気まぐれ紀行

ゆとり世代のコミュ症が綴るお気楽日記

最適解はいまだ見つからない。

久しぶりに酷い鬱モードに陥った。

 

きっかけは、高校時代の部活仲間と年末年始に集まろうという話があると聞いたからだ。

 

彼らと会うこと自体は楽しみだ。

しかし、楽しく毎日を過ごしているであろう彼らに会うことで、自分を卑下してしまう自分が想像できてしまったのだ。

 

 

高校時代ははっきり言ってつまらなかった。

クラスでは独りぼっちで過ごすことが多かったし、楽しいと思えるイベント的な出来事もあまりなかった。

5人ほどいる部活仲間の半分はいわゆる陽キャで友達が多く、「なぜ自分はああではないのか」と落ち込む日々があって、その度に自己嫌悪になっていた記憶がある。

 

少し背伸びして明るく振る舞っても、その瞬間止まり。

クラス替えや、次の機会からはまた知り合い状態に戻ってしまい、決してそれ以上の関係に発展することもない。

 

理由が分からなかった。どうすればいいのか検討がつかなかった。

 

 

結局、その答えは高校はおろか大学でも見つけることができず今に至る。

 

その間、育まれたのは「人間嫌い」という擦れた価値観だけ。

誰にも必要とされない苦痛を紛らわせるためには、他人を自分から拒み一切の興味や思いやりを捨て去るほかなかった。

 

そして、他人と比較するのもできるだけやめるようにした。

根拠も何もないけれど、良くも悪くも自分はこれでいいと認めて、殻に閉じこもることにした。

 

実際、多少は気持ちが楽になったし、自己肯定感らしきものも持てたような気がした。

しかし、そのぶん他人への興味を今まで以上に失っていく自分を自覚的に感じた。

 

 

そんななかで、はじめた営業としての仕事。

ただでさえ、就活で面接官に取り入ることに懐疑的だったのに、客先で愛想を振りまくという行為がどうしても受け入れられなかった。

 

だって、普通そうだろう。

なんで嫌いな「他人」に対して、微笑みかけたり気を遣ったりして迎合しないといけないのだ。

 

許せなかった。

自分を受け入れてくれなかった「他人」に対し、どうして思い遣りなど持てようか。

良い人を演じてまで得る他人からの信頼など欲しくはなかった。

 

 

そして、その頃からだろうか。

本格的に人付き合いの方法が分からなくなってしまったのは。

 

他人の言うことも信用できないし、心底好きになるということもない。

他人を思い遣るという行為自体が相手に取り入るための、汚らわしく浅はかな行動のように思えて仕方なくなった。

 

 

そんななか、山口で出会ったFさん。

Fさんもいわゆる陽キャで、「ノリでなんとかなる」とかって発言しちゃう人だ。自分とは全然違う人生を送ってきたのだろうなと思う。

 

その人は親切心からなのか、ズバズバ思ったことを自分に対して言ってくる。

自分がコミュ症なのは自覚していたが、その傷を弄くり返しては怒涛のダメ出しをしてくる。

 

それ自体は別に構わないのだが、そこまで言われるとたまに落ち込む部分もあった。

本当にそうなのかと疑問に思う部分もありつつも、自分に友達ができてこなかったのは事実だし、すれ違いだって多々起こっている。

 

お前は一生ぼっちだ、なんて残酷なことを言われたこともあった。

 

 

一体、いまいる数少ない友達は何をもって自分とつるんでくれているのだろうかと不安になった。

なぜ自分は受け入れてもらえなえないのかという疑問を再び問わねばならなくなった。

 

せっかく傷口に蓋をしていたのに、それを再び蒸し返された。

 

そんななか出た高校時代のミニ同窓会。

結婚して楽しそうにしている人もいるなかで、どんな顔して行けばいいというのだろう。

 

「人間嫌い」という価値観でコーティングされた精神の殻は思いのほか脆く、高校時代の古傷が再び痛み出す。

せっかくその価値観で自分の存在意義を保っていたのに、なにかの拍子で簡単に瓦解してしまうらしい。

 

心の殻は意外と脆い。

 

誰かが自分を許容してくれたら、それをきっかけに「他人」を愛してもいいなと考えていたが、一人で閉じこもっている以上その可能性はないに等しいのかもしれない。

いっそ一人で生きていきたい気もする一方で、他人から必要とされたい自分もいるのだ。

 

人は孤独には耐えられない。

一体、どうしたらいいというのだろう。

 

 

最適解はいまだ見つからない。