ゆとり世代のボッチが送るお気楽生活日記。

ぼっちの気まぐれ紀行

ゆとり世代のコミュ症が綴るお気楽日記

26歳の誕生日を迎えて。

誕生日がきた。

もとから年齢を重ねることに喜びなんて感じたことはないけれど、この歳になると負の感情が混ざってくる。

 

 

去年は誕生日がGWの初日と被っていて、そのまま友人と九州一周旅行に出かけたものだが今年は違う。

GWは例年通りの長さだし、何よりコロナウイルスのせいで出掛けることもままならない。

 

ひとりぼっちで誕生日を迎えて、ひとりぼっちでいつも通りのご飯を自分で作り食べる。

少し悲しく寂しい誕生日ではあるけれど、それでも何人かの友人がLINEでお祝いメッセージをくれるのは、やはり嬉しい。

 

 

先日、山口で知り合った友人と山へ登りに行った。

最近、ほとんどお喋りらしいお喋りをしていなかったので久しぶりに息抜きができたように思う。

 

ただ、それと同時に人との話し方が少し分からなくなっている自分を感じた。

しばしばあることだし、大して気にするようなことではないのかも知れない。

 

けれど、少しずつ前以上に人付き合いが下手くそになってしまっているのかな、なんてことを考えてしまう。

 

 

仕事は相変わらずだ。

自分のやるべき事に関しては、それなりに真面目にやっているつもりだが、みんなはそれに満足はしてくれていないらしい。

 

少し前にも、クビにするか否か考え中だみたいなことを言われた。

 

 

正直、失礼な話だと思う。

なんだかんだ言っても、それ相応にひたむきに働いているというのに。

 

 

しかし、言いたいことが分からない訳でもない。

みんなは気配り目配りする人間を求めているらしいけど、自分はそれには応えていないし、応えようとする努力もあまりしていない。

だから、きっと仕方のないことだ。

 

 

けど、そんな風に原因が分かっているのに頑なに拒んでしまうのは我ながらどうかしてる。

 

 

思えば昔から集団行動は苦手だったように思う。

幼稚園とかで行うダンスやお遊戯の時間は、なんだか恥ずかしいやら照れくさいやらアホくさいやらで真面目に取り組んでいなかった記憶がある。

 

きっとその時点から、協調性の欠落した人間性が育まれてきたのだと思う。

 

 

一方で、そんな歳から集団行動に対して本能的な嫌悪を覚えていたのだとしたら、それはそれで仕方のないことではないかとも思う。

根本的にそういう人間なのだから、今さら人付き合いの重要性を説かれたと言って、「はい、そうですか」と付き従えられるわけがない。

 

本当にただの言い訳に過ぎないのかもしれないけど、これほどまでに集団というものに対して苛立ちを覚えてしまう以上、それが自分という人間の本質なのではないかという気もしてくる。

 

思いやりだの分かり合いだの、偽善的で欺瞞的でお為ごかしな美辞麗句にしか正直きこえない。

 

そうは言いつつも、徹底してそう言い切れない自分もいるのが辛いところだ。

要領が良ければまだしも不器用だし、孤独だってそこまで好きではない。

 

自分ほど「ヤマアラシのジレンマ」状態になっている人間もそうそういないんじゃないかと思う。

 

 

山口に来て、一年と少し。

いつまでいるのか、或いはいられるのか分からない。

 

その判断を、会社の決算月である6月にすると言われた。

 

どんな結果になろうと素直に受け止めるつもりだ。

それが自分の振舞いの責任だし、ある意味では自分の信念を曲げなかったことへの勝利だと言えるかもしれない。

 

ただ単に強情で傲慢で捻くれているだけに過ぎないのだろうけど、自分にだって譲れないものはある。

 

 

26歳がどんな年になるか想像もつかないし、あまり良いイメージは湧かないけど、いまやれる事をやって新しい未来を掴み取れたらいいな、なんてことを思う。

 

人付き合いの方法がさっぱり分からないけど、今年こそは自分なりにしっくりくるやり方を見つけたいものだ。

 

 

4月も終わり。

今月は、伯母とタケノコ掘りやワラビ取りに行った記憶くらいしかない。あとはつまらない花見会とTSUTAYAに行ったくらいか。

 

コロナウイルスにより出かけられない状態ではあるが、じきに始まるGWは有意義に過ごしたい。